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会長挨拶・コラム COLUMN

平成24年7月:花在れバこそ

第12代会長 藤井 亮輔 先生

千を超える植物の新種に名前を付け日本の植物分類学を独学で開いた牧野富太郎(1862~1957)。七百坪ほどある氏の居宅跡が練馬区の庭園になっている。ゴールデンウィークの1日を、大泉学園駅(西武池袋線)に程近いこの「庭」でリフレッシュした。生い茂る草木が武蔵野の面影をとどめ、虫や鳥たちも主役を担う。生きとし生けるものの楽園さながらだ。

かたや、百種以上の生き物が日々絶滅しているという。その類の一つとなった日本のトキを、中国産の子孫たちが蘇らせてくれた。ニッポニア・ニッポンの学名を持つ鳥には、やはり日本の空を舞ってほしい。8羽のヒナの健やかな成長を祈るばかりだ。

「国産」の危機といえば相撲の世界も深刻だ。番付表には洋の東西・南北からの渡来組が常連で居並ぶ。この夏場所も、マゲの数では純国産が勝ったものの、賜杯を制したのはモンゴル産の旭天鵬だった。若貴ブーム後の角界を地道につないだ「日本人」の優勝を大いに称えたい。

それにしても、37場所続けて渡来力士に抱えられた賜杯の思いやいかに。「国技」の文字がうつむいて見える。国産の不振はひとえに新弟子不足にあるようだ。昨年の入門者は60人と、20年前のほぼ4分の1になってしまった。「数は力」の格言につまされる。

角界の図は理療の教育界に重なり合う。同じ20年の間に、理療科の生徒数は半分(780人)になり、本科保健理療科に至っては2割(180人)に激減した。この減少カーブと軌を一つにするように、盲学校全体の元気度も落ち込んだように思う。理療科の生徒数がここまで減ったのはなぜだろう。適齢期にある視覚障害者の「パイ」が小さくなったからだろうか。むしろ私は、生徒の描ける夢が小さくなったことの影響が大きいのでは、と診立てている。

昭和50年代初頭までは誰もが夢を描ける時代だった。三療の免許さえ手にすれば国公立や私立の大病院も高嶺の花ではなかった時代。卒業後は、まずは病院で腕を磨き、行く末は開業で一旗あげる。そんな先輩たちの夢語りに小中学部の生徒は憧れたものだ。

その後、環境は一変する。マッサージの診療報酬が低く抑えられ、理学療法士が急増したことで病院就職の道はほぼ途絶えた。開業で一旗あげようにも、無資格者や柔道整復師の違法あん摩が大手を振るう市場では、生き残ること自体が「高嶺の花」になった感がある。

一方、一般大学で学ぶ視覚障害学生が増えているという。2010年度は670人(日本学生支援機構)を数えたとのことだが、穿って見れば、理療の進路に対する失望感の顕れとも取れる。

いずれにせよ、大学の門戸が広がったことは喜ばしいことだ。ただ、卒業後の彼らを受け入れるべき企業や公共機関の戸口はどうだろう。視覚に障害があるというだけで、未だ隙間ほどしか開かれていないのが現状のように思う。そこに、見えることを絶対要件としない「三療」の普遍的価値がある。

とはいえ、それも働く場があってのこと。なればこそ、病院からマッサージ師の姿を消してしまっては、先人にも未来にも申し開きが立たない。一度、絶滅すれば、トキのような「復活」は難しいからだ。

富太郎に話を戻そう。博士の学歴は小学校中退。長く野にあったころ「学位持ちと相撲を取ることこそ愉快」と書いた。植物を愛人に例えてはばからず、「富も誉れも願わざりけり」と詠んだ。上下逆さにした「貧」の字を「太郎」に冠して「とみたろう」と読ませ、貧乏を笑い飛ばした。そんな生き様の原点が「庭」の歌碑に刻まれている。

「花在れバこそ吾も在り」

博士のひそみに倣えば、「生徒在れバこそ」の盲学校。彼らが描ける夢の世界を、みんなで大きくしませんか。