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会長挨拶・コラム COLUMN

平成25年4月:韓国の理療教育事情

第12代会長 藤井 亮輔 先生

韓国には盲学校が国立1校と市立2校を含めて12校ある。その中の国立ソウル盲学校の理療専門教育館を去る2月26日に訪問した。韓国理療教育学会(韓理教:崔斗浩会長)の数年越しの要請に応えたもので、緒方伸彦副会長、喜多嶋毅教科書委員会委員長とともに参加した。筑波技大の国際交流事業に相乗りした関係で、訪韓団には同大のAMIN推進委員会のメンバー3人も同行した。韓理教は108名の会員を擁する理療科教員の全国組織で日本の理療科教員連盟に当たる。1987年に結成された。

教育館は6階建ての瀟洒な造りで、高等部の理療科(本科保理科に相当)、再活科(高卒中失者の2年編入課程)、専攻科(高度按摩師養成課程)が入る。李裕勳校長の歓迎を受けた後、韓理教の役員を中心に20名ほどの教員が集う講堂で、理療教育の現状と課題をテーマにシンポジウムが開かれた。言葉の壁を越えて活発な情報交換ができたが、金斗善氏(筑波大学理療科教員養成施設卒)と呉泰敏氏(文京盲理療科卒)が通訳を務めてくださったおかげである。

ところで、韓国には日本のような理療科教員養成制度がない。理療科から大学に進学し普通教科の免許を取得した後、盲学校の理療科で5年以上の経験を積んだ者が300時間以上の研修を終えると理療科教員の免状が付与される。ただ、この研修が実施されたのはこれまで2度しかなく、教員の専門性向上が懸案となっている。このことを含め、日本には韓国の理療教育を知る資料は皆無に等しい。そこで、今回の訪韓で得た資料等を元に、韓国における理療教育の沿革と現状の一端を述べてみたい。

日本が韓国の統治を始めてから3年後の1913年、済生院盲唖部が開設され特殊教育が始まった。以来、済生院は5人の日本人盲唖部長(校長)の下で運営されたが、1945年に米軍政府に移管されたのを機に国立盲唖学校に改称された。1948年に文教部(現、教育科学技術部)の所管となり、1959年に盲聾が分離して現在に至っている。

鍼按教育は済生院開設と同時に始まり終戦までは日本と同等の教育が行われたようだ。日本の鍼按教育を規制していた内務省令、「按摩術営業取締規則」「鍼術灸術営業取締規則」(1911年)が朝鮮総督府から1914年に発令されているからだ。この規則により盲唖部卒業生には三療営業が無試験で許可されたが、1946年に同規則が廃止されたため公認の鍼按教育は途絶えた。以来、鍼按教育は非公式に続けられたが、1973年に「看護補助員、医療類似業者及び按摩士に関する規則」が、1977年には第二次盲学校教育課程が交付され、按摩師のみの教育制度(中卒3年課程)が復活、今に至る。

2010年4月現在、全国の盲学校には1450人の児童生徒が在籍し663人の教職員(教諭は494人)が従事している。2001年以降、すべての盲学校に理療科(生徒数613人)が置かれるようになり、そのうち6校に専攻科(同172人)が設置された。専攻科を卒業すると教育開発院から理療専門学位が授与される。

卒業後の進路は按摩パーラー就職者が多くを占めていたが、近年はヘルスキーパーが増え始めている。按摩業は視覚障害者の専業になっているが、就業按摩師数は2012年時点で約6000人。そのうち2500人は大韓按摩師協会付設の按摩修練院の修了者が占める。修練院は中途失明者の更生援護施設として1972年に開設された。修業年限は2年で全国に9ヵ所が展開している。

以上、韓国の理療教育事情を駆け足で見てきた。日本が植えた理療教育の苗は100年の風雪に耐えたせいだろうか、太い幹に育っている。専門学位の制度を実らせたパワーなど、今の日本に欠けているものを教えてくれた。胸に刻みたい。